小林敏明教授の「ライプツィヒの街から 80 30年前の自分 ― その1

こんばんわ!モンです

 

ドイツの小林教授からレポートが届きました

なんとなんと回を重ねること80回

 

教授本当に毎回有難うございます

それでは本日もよろしくお願いいたします。

 

 

80)30年前の自分  その1

 

 今年は2024年ですねえ。いつの間にか2000年を24年も過ぎてしまいました。かつて自分が2000年を超えて生きていることなど想像もしてなかった身としては、なんだか不思議な気分です。しかも、まだしばらく生きながらえそうだとは。ということで、以前にも書いたように、この頃は日増しに過去を振り返ることが多くなりました。21世紀ではなく、20世紀の。私にとって21世紀はのんべんだらりと続く「現在」であって、あまり「過去」の気がしないのです。「平成」とか「令和」などという言葉は他人事のようにしか聞こえません。

 

 そこで試しに、30年前自分は何をしていたのだろうと自問してみます(6.70年前だとかなり記憶があいまいになりますから)。これなら想い出すことも比較的容易な「近過去」です。30年前というと1994年、まだ20世紀です。「ここがロドスだ、ここで跳べ」で、思い切って日本を脱出して2年が経っています。年齢は45歳、ベルリンで定期的に指導教授の講義やゼミに顔を出しながら、せっせとドクター論文を書いたり、その資料を集めたりして毎日を送っていましたが、目標がはっきりしているので、ずっと気が張った日々でした。それなりに充実していたというか。

 

 とはいえ、単調な学究生活の毎日でもありませんでした。というのも、一方で生活費を稼がなければならなかったからです。日本から幾らかの金を持ってきたのですが、これに手を付けたら、タケノコ生活で、いずれ空っぽになり、日本に帰らなければならないので、絶対にこれに手を付けないという決心で、金になるならどんな仕事でもやってやろうと思いましたが、いざとなると、どんな仕事でもというわけにはいきません。体力の問題もありますし、外国人ゆえの制約もあります。

 

 一番の収入は翻訳の仕事でした。ドイツ人のパートナーとチームを組んでドイツ語から日本語へ、日本語からドイツ語へという両面のニーズに応えようという作戦で、頼まれたものは何でも引き受けました。普段は企業関係とかシンポジウム関係の翻訳が中心なのですが、なかにはポツダム広場オープニングセレモニーの主賓挨拶とか、クリスマスの飾りで有名なエルツ山地工芸展の宣伝パンフといった、珍しいのもありました(この中には一個5百万円もする人形の眼を作っているなどという工房もありましたよ)。幸い私は挨拶文のようなものは結構書き慣れていて、「本日はお日柄もよく」とか「お客様のご愛顧にお応えして」などといった原文にはない言葉まで付け加えて訳(脚色)したりしたので、エージェントからも重宝がられ、優先的に仕事を回してもらいました。

 

 一番実入りが良かったのは、先端技術の翻訳です。私(たち)が訳したのはドイツの会社から依頼された電気メッキの最新工法でした。日本の研究所のレポートを独訳するのですが、これが大変だった。なんせ、中身がまったくわからないのですから。にもかかわらず、われわれがこれを引き受けたのは、早い話、報酬額が飛びぬけていたからです。はっきり覚えていませんが、確か50万円ぐらいだったでしょうか。これをむざむざ他に渡す手はない、われわれはそう考えました。そしてみごとそれをやり遂げたのです。依頼会社からも感謝までされました。どうしてだと思います?そのカラクリはこうです。

 

 

 先端の工業技術というのは今やほとんど専門用語ができていて、しかもそのほとんどが英語です。最近だったらコンピューターの用語を見ればわかるでしょう。ダウンロード、インストール、クリック、ラップトップ等々ですね。先端のメッキ技術の世界も同じで、専門家同士は互いに専門用語を使ってコミュニケートしています。だからそこで使われている専門用語(英語)はドイツ語にしないで、カタカナをそのまま原語(英語)に戻すだけでいいのです。あとは図表を参考にしながら、文章の構文をなす地の文、つまり(日本語で言えば)「てにをは」だけをドイツ語に直すだけですから、思ったほど難しくありません。しかも、理系人間の書く文章はたいてい簡単な構文です(ただし、知ったかぶりをして訳のわからないことを書きたがる建築家は別ですが)。自分では内容がちんぷんかんぷんであっても、とにかく文章上はこうなってますよというわけです。そうすると専門家たちはなるほどなるほどとか言って、翻訳者の頭脳を超えて勝手に理解しているわけですね。つまり、こういう翻訳は翻訳しない方が良い「翻訳」なのです。

 

 考えてみてください。例えばコンピューター関係の文章で「そのファイルをダウンロードして、それを今度はクラウドに……」というような文章では、ファイル、ダウンロード、クラウドといった言葉は変に訳さない方がいいですね。訳すとかえってわからなくなってしまう。というようなわけで、私は当時翻訳業を主体にして生活費を稼いでいました。

 

 特殊な翻訳の収入としては、本の翻訳がありました。出版社から翻訳料が出ることもありましたし、国際交流基金に出版企画を申請して、それが認められてまとまった額の報酬が出るというようなこともありましたが、これはしょっちゅうというわけにはいかず、あくまで一時金です、まあボーナスのようなものでしょうか。

 

 

 こういうことをやっていると、自然と通訳の依頼があります。私もドイツに来た当初はときどき引き受けましたが、自分がまったくその能力がないことを知らされ、数回でやめました。

 

 ベルリンで、今は亡き前衛美術家の白髪一雄さんの展覧会が開かれて、その通訳を頼まれたことがあります。戦後まもなく天井から縄にぶら下がって足で絵を描いて有名になった人です。私の役目は主賓の白髪夫妻の横にいて、ドイツの評論家のラウダチオ(顕彰演説)を囁くように同時通訳するというものでしたが、これがとんでもなかった。私はあらかじめ演者に一段落ごとにポーズを入れてくださいと申し入れたのに、彼女はそれを忘れて(無視して)どんどん話し続けます。最初の文章だけ訳して白髪さんに伝えたものの、続く文章は耳に入ってきません。ブラックアウトです。

 

 しょうがないから聴こえてくる単語だけを挙げて、「なんか神戸がなんとかかんとかって言ってるようですが……あ、今広島って言ってましたね」といった程度のことしか言えません。仕方がないので正直に「先生、すみませんねえ、実は何言ってるかよくわからないのですよ」と言うと、白髪さんはニコニコしながら「ああ、いいですよ、いいですよ、どうせあの人の言うことはわかってますから、はははは」という調子。すっかり安心した私は、あとは演説の翻訳をそっちのけにして白髪さんと雑談です(約束を破ったほうが悪い!)。

 

 

 私に幸いしたのが、会場には主賓二人と私以外に日本人がいなかったこと。しかも演説の続く間私と白髪さんは歓談しているので、主催者も観衆も、てっきり私が流暢に通訳していると思い込んでいることでした。いやあ、じつに冷や汗ものの「通訳」でしたが、さすが大家はちがいますね、泰然としていましたよ。以来私が白髪一雄という人物を尊敬したのは言うまでもありません。レセプションが終わって主催者から礼を言われ、この後一緒に食事に行きましょうと誘われたときは、さすがに図々しい私もビビッて、「いやあ、この後まだ用事が入っていますので」とかなんとか言いつくろって、慌てて帰ってきたものです。それ以来です。二度と通訳だけはやらないと決めたのは。このころ私がやった面白いバイトの体験はまだまだありますが、長くなるので続きはまた次の回に。

 

白髪さんのヴィデオここをクリック

 

 

 ところで、まもなくベルリンの風車デモです。今年は3月9日になりますが、もちろん今年も出かけますよ。

 

 

 

教授!本日も有難うございます

 

1個500万円の人形の目玉とは!!!どんな目玉なのでしょう~

 

専門用語は敢えて訳さない・・・

なるほどですねぇ

 

90回、100回、と

今後も教授、よろしくお願いいたします。

 

ドイツの3月と言えば

次回は風車ですかね?

楽しみにいたしております